今日はちょっと店長らしくない記事を書きたいと思います。
いつもならばプラス思考な店長もちょっとつらくなってしまうようなことを書きたいと思います。
アロマという人を幸せにする仕事をしている私ですが、久しぶりに自らが癒されたいと思った瞬間がありました。
でもどうしても文章にして残しておきたいことなのでお許しください。
本来お店の記事コーナーに私事を書いてはいけないのですが、
どうしても残しておきたいのです。
このページが残っている限り残しておきたいと思ったのです。
うまい文章ではないかもしれませんが、感じた気持ちをそのまま文章にしたいと思います。
僕の大好きなおばあちゃん
ずいぶん前から自分のおばあちゃんのことが気になっていました。
仕事の忙しさにかまけて、おばあちゃんに会っていないことがずっと気になっていました。
「今度実家(三重県)に帰ったら絶対おばあちゃんに会いに行こう」とずっと何年も思っていたような気がします。
でも明日朝早いからとか遅く帰ると仕事に支障が出るからとかいろいろと言い訳を自分に言い聞かせるように
おばあちゃんに会っていないことに後悔しながらいつものように湾岸線にのって浜松を目指しているのでした。
もう5年くらいになるでしょうか。おばあちゃんの顔を見ていないのは。
でもずっと心の片隅に僕を思ってくれているおばあちゃんと僕が大好きなおばあちゃんの時間は止まっていました。
先週おばあちゃんに会いに行きました。母親は「あんたらのことわからへんかも…」と言っていましたが、
時間が止まっていたためか、本当の意味がよく分かっていませんでした。
おばあちゃんに会いに行ったのは小さいころによく行ったおばあちゃんの家ではなかった。
おばあちゃんのいる場所は近くに山のある景色の良い、老人ホームだった。
おばあちゃんはここに今はいるのか、まあ久しぶりだし、時間も経っているし、そういうものなのだろうと
正直なにも考えずにホームに足を踏み入れた。
そこには高齢化社会とはこういうことなのかと自分の前に爆弾が落ちたような衝撃的な光景だった。
お年寄りたちがまるで幼い子が米粒をこぼしながらご飯を一生懸命食べているように椅子に腰掛けながら一所懸命食べている
様子だった。ケアをしている人たちが話しかけても返事がなかったり、無意味に立ったり座ったりしているお年よりもいる。
最近ニュースで話題のコムスンもキチンと許可を受けていなかったかもしれないが、日常生活もままならないお年寄りのためやそれを支える家族のために現実と法律の間のギャップにうごめきながら、苦労していたんではないか。駄目なのは立法の責任者である国会議員達で、現実が見えていないのはそういう人たちなのではないかと一瞬疑った。
そんなついさっきまで客観的に見ていた光景の中に僕のおばあちゃんはいた。
5年前に会ったときとは別人のようだった。
やせ細っていて、周りの状況は何も分かっていない感じだった。
でもいくらなんでも自分のことはわかってくれると思って話しかけた。
5年ぶりにかける言葉が「わかる?」という言葉になるとは夢にも思わなかった。
でも僕の口からはその言葉が自然に出てきた。
僕の想像していた返答は「達也か?」だった。
でも現実と時間のギャップはそう甘くはなかった。
「わからん…」
だった。
後から一緒に行った弟の健児にも聞いたが、弟はこう言っていた。
言い方は今風かもしれないが「1年ぐらい前に会いに行ったときは
ショッキングやった…」
その言葉が重くのしかかった。
なぜなら自分が今回一番ショックを受けたからだ。
弟がなんだか大人に見えた。
あんなに大好きなおばあちゃんが、今は僕のことを判別すらできない現実。
なんだか自分が大好きな女の子に振り向いてもらえない空しさにも似た感覚。
「どうして僕はこんなに好きなのにあの子はあの彼のことが好きなんだろう」みたいな感覚。
でもどうしようもない。でもあきらめきれない。でもどうしょうもない。というあの葛藤の感覚。
今思い起こせば、小さい頃よく僕はよくおばあちゃんに預けられた。
おかんがパートの仕事を始めて、その近くにあったおばあちゃんの家に良く預けられた。
そこでは楽しかったり、居心地の良い感覚しかどうしても思い起こせない。
今では珍しいガスの炊飯器で炊いた粒の立った米。
煮干でダシをとったおばあちゃんの赤だし。
夏に近くでやっていた盆踊りに連れて行ってもらったこと。
夏休みにはおばあちゃんの家の前で蝉ばかり追い回していたこと。
縁側から眺める庭。
今では何が入っていたのかも覚えていない小さな倉庫みたいな建物。
丘から見える四日市のコンビナート。
おばあちゃんにご馳走してもらった柿安(松坂牛のしゃぶしゃぶ屋)。
少々ハイカラだったおばあちゃんと見に行った007の映画。
いつも散歩に出かけていた帽子をかぶったおばあちゃんの姿。
今はもうその面影はない。
椅子にポツリと座っているだけの僕のおばあちゃん。
もう話しかけてはくれない。
でもおばあちゃんは僕の自慢だ。
僕のおばあちゃんは絶対に人の悪口を言わない。
今まで30年ちょっと生きてきて、聞いたことがない。
今まで30年ちょっと生きてきて、おばあちゃんってどうなの?って
疑問に思ったことなど一度もない。
そんなおばあちゃんは今回僕にあることを教えてくれた。
家族の大切さ。お年寄りを敬い、大切にする心。
浜松に戻った僕は最近、街を歩いていると何かとお年寄りが目に留まる。
横断歩道で行ったり来たりしているお年寄りを見るとなんだか所詮他人だが放っておけない。
大丈夫だろうか?理不尽な車が急におばあちゃんの前に現れて、ビックリさせないだろうかと。
いつも心配になる。
忘れていた人間の大切な気持ち。
忙しさでごまかしていた、人間の大切な気持ち。
思い出した。
でもこれはおばあちゃんが、ああいう人だったから僕は今こう感じているんだろうなと思う。
人のことを考えないとんでもないおばあちゃんだったら、ああいう生活をしているとこうなるんだろうな。
僕はこうはなりたくないと反面教師になっていただろう。
おばあちゃんは僕の中でいつまでも生きている。
あのおばあちゃんが死ぬことなんてないと今でも思っています。
今度実家に帰ったら大好きなおばあちゃんにわかってもらえるかわからないけれど、アロマオイルを持っていってあげようと思います。
そして、これで大勢の人を幸せにする仕事を今しているんだよと教えてあげようと思います。
Naturas Psychos ショップディレクター 日置 2007/06/26 |